2013年01月17日
第11回 「けいきさん」と親しまれた自転車人
僕の「自転車小研究」では、2013年は自転車という乗り物がこの世に誕生して200年目という節目の年。多くの市民に親しまれた自転車人を今回は紹介したいと思う。静岡で過ごした32歳から60歳までの29年間、政治の表舞台には一切出ず、ひたすら趣味に没頭。その趣味の一つが自転車。彼こそ日本人最初の自転車人、そして最後の将軍徳川慶喜だ。
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慶喜公という人物
日本で最初の自転車人をだれかと聞かれたら、僕は「徳川慶喜公さ」と答える。もちろんこれには異論があるのも承知だ。いつの時代も自転車人はカッコよくなければならない。そして、自転車のように多くの人から愛される存在でなければならない。その定義からいうと、最後の将軍、徳川慶喜公はまちがいなく自転車人だったといえよう。
慶喜公は新しい時代の波を察知し、討幕派の先手をうって大政奉還をして、日本の鎌倉幕府以来続いてきた武家政治に自ら幕を下ろした人物。わずか32歳という壮年で隠居生活を強いられるのだが、その後は趣味の世界に生きたといわれている。1887(明治20)年2月5日の静岡大務新聞には、「徳川慶喜公が東京に自転車を注文して乗り回している」という一節が残されている。
慶喜公が自転車を愛した理由
慶喜公の自転車への思いを知りたくて、僕は徳川慶喜家の「家扶日記」を調べることにした。
※「徳川慶喜家扶日記」 徳川慶喜家の家扶たちが書留めた公用日記。慶喜の静岡時代、明治5年から明治31年(明治元年から明治4年まで欠)までと東京移住後の明治45年に至るまでの43冊にわたっている。
まず驚くことは慶喜公が自転車の趣味にのめり込んだ年が、40代後半から50代に入ってからだということ。日記では自転車に乗るという行為を「今日も自転車で運動をした」と書いてある。屋敷から6kmもある丸子の吐月峰まで自転車で走ったと日記にも残されており、清水の次郎長とも交流があった慶喜だから、静岡から清水までも自転車で走ったであろう。当時の自転車と道路事情を想像すると驚くべきことだ。自転車はダルマ型のチューブタイヤのないガタガタ自転車で、尻が痛くなるようなヤツだ。
趣味人として生きたといわれる慶喜公は、健康に気を遣う反面、身体を鍛えるために晩年まで弓を引き続けるなど男を磨くことには興味をもっていた。カメラをはじめ狩猟、投網など趣味の多さはそれを物語っている。
50歳を過ぎた慶喜公には、自転車に乗ることはからだを鍛えるための運動であったことは間違いないだろう。もう一つの理由は当時の自転車はダルマ型でサドルの位置はとても高いことから、走る姿は馬で駆け巡る姿と同じで、何よりも西洋のモノに興味があった彼には、ダンディズムを表現する道具の一つであったのであろう。その姿はとても粋なものでカッコ良くに見えるものだと・・・。しかし元将軍が目の前を自転車で走る姿には、本当のところ、驚きと奇異の目を見張らせたのかもしれない。
自転車を通じて描かれた慶喜公
静岡県庁では、明治20年、県税として自転車税を創設し1台50銭を徴収した。慶喜公の入手はそれより以前の明治10年前後。資料によると静岡市中を乗り回し始めたのは、明治15年から16年ごろだったようだ。むろん単独での行動はない。お供をする者に靴を注文するように3円ずつ支給した、と家扶日記にある。慶喜公の後を追いかけて走るお供の滑稽な姿が想像できる。
静岡県自転車軽自動車商業協同組合の記録によると、浮月楼のお抱え大工が手の器用さを買われ、慶喜公からお呼びがかかり愛車の世話を手掛けることになった。その後慶喜公の勧めで自転車屋を開業したらしい。静岡県内で最初に自転車店を開業した関川虎吉氏のご子孫、関川清明氏は「慶喜公に触発されて、多くの市民が早い時期から自転車を楽しむようになった。自転車のまち静岡のきっかけは慶喜公のお陰だろう」と語る。
慶喜公の自転車は、大正中頃まで遊郭の引付の間の置物になっていたようだ。静岡で最初の自転車で、しかも前将軍様愛用のものとあって床の間の置物にする十分な価値があったのだろう。
きれいな女性に見とれてどこかに突っ込んだとか、お供の者がついていけず人力車で追いかけたとか、自転車の練習台を屋敷の庭に作ったなど自転車にまつわる逸話は、今も語り継がれている。
自転車は慶喜公が庶民のなかに溶け込むきっかけとなり、庶民も、彼の人間らしい姿を見ることによって慶喜公に親しみを感じ、「けいきさん」と慕われるようになったのだろう。自転車を愛した最後の将軍徳川慶喜は、愛される自転車人であったことは間違いないと思うのは僕だけだろうか。
◆コースガイド◆
静岡の街角から清水湊へ続く、慶喜公巡りのコース
スタートの元代官屋敷【浮月楼】は、JR静岡駅北口前。

浮月楼の前を通って【宝台院】へ(0.6km)。

続いて伝馬町にある【「西郷・山岡の地」の碑】(1.0km)から、駿府公園へ(0.5km)。

内堀を時計回り、静岡隻葉学園を過ぎて左折、外堀を渡った先の西草深ポケットパークには【慶喜公草深屋敷跡の石碑】(1.0km)。

その先には、慶喜公がカメラに収めた【静岡浅間神社】(0.4km)。

ここまでが散歩コース。この先は健脚コース。
本通りに出て、安倍川餅で有名な【石部屋】のある安倍川橋を渡る。

さらに、慶喜公が自転車で訪れた【吐月峰】に向かう。

吐月峰から先は【太平洋岸自転車道】を走って丸子川を下り、さらに駿河湾を右手に東に向かう。

左手には【久能山東照宮】。
1159段の石段を上がった東照宮博物館には、慶喜公のカメラや油絵がある。

東照宮の麓から清水方面へ、折戸湾沿いの自転車道を走り、エスパルスドリームプラザの手前を左折すると右手に次郎長の船宿、【末廣】、近くには次郎長の生家。

ゴールのJR清水駅まで走る自転車散歩は約50km。
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慶喜公という人物
日本で最初の自転車人をだれかと聞かれたら、僕は「徳川慶喜公さ」と答える。もちろんこれには異論があるのも承知だ。いつの時代も自転車人はカッコよくなければならない。そして、自転車のように多くの人から愛される存在でなければならない。その定義からいうと、最後の将軍、徳川慶喜公はまちがいなく自転車人だったといえよう。
慶喜公は新しい時代の波を察知し、討幕派の先手をうって大政奉還をして、日本の鎌倉幕府以来続いてきた武家政治に自ら幕を下ろした人物。わずか32歳という壮年で隠居生活を強いられるのだが、その後は趣味の世界に生きたといわれている。1887(明治20)年2月5日の静岡大務新聞には、「徳川慶喜公が東京に自転車を注文して乗り回している」という一節が残されている。
慶喜公が自転車を愛した理由
慶喜公の自転車への思いを知りたくて、僕は徳川慶喜家の「家扶日記」を調べることにした。
※「徳川慶喜家扶日記」 徳川慶喜家の家扶たちが書留めた公用日記。慶喜の静岡時代、明治5年から明治31年(明治元年から明治4年まで欠)までと東京移住後の明治45年に至るまでの43冊にわたっている。
まず驚くことは慶喜公が自転車の趣味にのめり込んだ年が、40代後半から50代に入ってからだということ。日記では自転車に乗るという行為を「今日も自転車で運動をした」と書いてある。屋敷から6kmもある丸子の吐月峰まで自転車で走ったと日記にも残されており、清水の次郎長とも交流があった慶喜だから、静岡から清水までも自転車で走ったであろう。当時の自転車と道路事情を想像すると驚くべきことだ。自転車はダルマ型のチューブタイヤのないガタガタ自転車で、尻が痛くなるようなヤツだ。
趣味人として生きたといわれる慶喜公は、健康に気を遣う反面、身体を鍛えるために晩年まで弓を引き続けるなど男を磨くことには興味をもっていた。カメラをはじめ狩猟、投網など趣味の多さはそれを物語っている。
50歳を過ぎた慶喜公には、自転車に乗ることはからだを鍛えるための運動であったことは間違いないだろう。もう一つの理由は当時の自転車はダルマ型でサドルの位置はとても高いことから、走る姿は馬で駆け巡る姿と同じで、何よりも西洋のモノに興味があった彼には、ダンディズムを表現する道具の一つであったのであろう。その姿はとても粋なものでカッコ良くに見えるものだと・・・。しかし元将軍が目の前を自転車で走る姿には、本当のところ、驚きと奇異の目を見張らせたのかもしれない。
自転車を通じて描かれた慶喜公
静岡県庁では、明治20年、県税として自転車税を創設し1台50銭を徴収した。慶喜公の入手はそれより以前の明治10年前後。資料によると静岡市中を乗り回し始めたのは、明治15年から16年ごろだったようだ。むろん単独での行動はない。お供をする者に靴を注文するように3円ずつ支給した、と家扶日記にある。慶喜公の後を追いかけて走るお供の滑稽な姿が想像できる。
静岡県自転車軽自動車商業協同組合の記録によると、浮月楼のお抱え大工が手の器用さを買われ、慶喜公からお呼びがかかり愛車の世話を手掛けることになった。その後慶喜公の勧めで自転車屋を開業したらしい。静岡県内で最初に自転車店を開業した関川虎吉氏のご子孫、関川清明氏は「慶喜公に触発されて、多くの市民が早い時期から自転車を楽しむようになった。自転車のまち静岡のきっかけは慶喜公のお陰だろう」と語る。
慶喜公の自転車は、大正中頃まで遊郭の引付の間の置物になっていたようだ。静岡で最初の自転車で、しかも前将軍様愛用のものとあって床の間の置物にする十分な価値があったのだろう。
きれいな女性に見とれてどこかに突っ込んだとか、お供の者がついていけず人力車で追いかけたとか、自転車の練習台を屋敷の庭に作ったなど自転車にまつわる逸話は、今も語り継がれている。
自転車は慶喜公が庶民のなかに溶け込むきっかけとなり、庶民も、彼の人間らしい姿を見ることによって慶喜公に親しみを感じ、「けいきさん」と慕われるようになったのだろう。自転車を愛した最後の将軍徳川慶喜は、愛される自転車人であったことは間違いないと思うのは僕だけだろうか。
◆コースガイド◆
静岡の街角から清水湊へ続く、慶喜公巡りのコース
スタートの元代官屋敷【浮月楼】は、JR静岡駅北口前。
浮月楼の前を通って【宝台院】へ(0.6km)。
続いて伝馬町にある【「西郷・山岡の地」の碑】(1.0km)から、駿府公園へ(0.5km)。
内堀を時計回り、静岡隻葉学園を過ぎて左折、外堀を渡った先の西草深ポケットパークには【慶喜公草深屋敷跡の石碑】(1.0km)。
その先には、慶喜公がカメラに収めた【静岡浅間神社】(0.4km)。
ここまでが散歩コース。この先は健脚コース。
本通りに出て、安倍川餅で有名な【石部屋】のある安倍川橋を渡る。

さらに、慶喜公が自転車で訪れた【吐月峰】に向かう。

吐月峰から先は【太平洋岸自転車道】を走って丸子川を下り、さらに駿河湾を右手に東に向かう。
左手には【久能山東照宮】。
1159段の石段を上がった東照宮博物館には、慶喜公のカメラや油絵がある。

東照宮の麓から清水方面へ、折戸湾沿いの自転車道を走り、エスパルスドリームプラザの手前を左折すると右手に次郎長の船宿、【末廣】、近くには次郎長の生家。

ゴールのJR清水駅まで走る自転車散歩は約50km。
Posted by eしずおかコラム at 12:00